「言葉を尽くす」ひとがすきだ。
小学校に入るまえの子どもだって、読み書きができちゃうくらい、文字や言葉に溢れている世界だ。
だから、「耳が慣れている」「通りのいい、わかりやすい」言葉を早々に身につけがちなわたしたちは、感情を味わって、じぶんの頭を捻って、なかなか当てはまる言葉が見つからないもどかしさを経て…出てくる「じぶんの言葉」にたどり着く経験をなかなかしてこれなかったのかもしれない。
わたしは「違うこと」が好きだからか、耳慣れしている、通りのいい、わかりやすい言葉に抵抗がある。
時間をかけてでも「じぶんの言葉」で話したいし、伝えたい。
届いたときのうれしさには、距離があってほしいと思う。
最短距離で行くべきものを選ばないと、今の社会はいろいろと簡単すぎて、早すぎるように感じる。
美和さんも「言葉を尽くす」ひとのうちの一人だと感じた。
言葉は意識をつくるし、自然と意識が言葉になることもある。(後者は“無意識”かな)
インタビュー中、「もともと、あんまり子育てをうまくいかせようと思ってない」と、美和さんは言っていた。
その言葉を目の前にしたとき、わたしは無意識に、「子育てをうまくいかせよう」と思っていたじぶんがいることに気がついた。そういうキャラでもないのに。
大人になったわたしが、うまくいく人生を望んでいたかな?と思えば、それはNOだった。
すんなりいく人生。先の不安や問題がない人生。わかりきった将来。
そういうのが嫌で、“あえて”選択してきたものがたくさんあったんだった。
油断すると、無意識に「清く・正しく・美しく」なっていってしまう。
「簡単で、多くのひとに理解されて、わかりやすくて、便利なこと」は、引力が強い。
でも、リアルな、人柄の溢れる、手触りのある、「そのひと」だからこその言葉や道のりにも力がある。
なるべくならそちらの力に引き寄せられていたい。だから「ひと」に会い、言葉を受け、それを伝えたい。
わたしにとって、「言葉」は誰かとつながるため、やりとりするためのツールだ。だから、ひとりでは湧いてこない。だからこそ、「言葉を尽くす」ひとがすきなのは、言葉の先に「ひと」の存在を感じるからなのかもしれない。
言葉というツールを尽くして、ひとと向き合ってきたひと。
ひとがいるから言葉がある。順番は、とっても大切だと思う。
「子どもは風の子、元気な子!」「母親は強し!」や、「保育者は明るく元気でたくましく!」のような言葉に起因するように、目の前のひとを置いてけぼりにして、子ども・親子・保育の現場の周りには、ハツラツさがへばりついていた。
でも、だんだん解像度があがってきて、「みんながみんなそうじゃないよね」って見えてきた。
気がついて、いろんなありかた、居場所、心地よさが広がってきた。
あとは、きっと、言葉が追いついてくる。少しずつ、少しずつ。
言葉を尽くして、保育現場と子育て支援の場をつくるひとが、美和さんでよかった。
「しぜんの国保育園」は、“ふつう”で、平熱のような場所だった。
「ふつう」というこの言葉の背景には、いろんな景色があった。
“保育者”の仮面を被ったひとがいなくて、ふつうの、いつも通りの大人が、子どもとともにいた。
ともにいるからには、どちらかが提供者で、どちらかが受益者という関係でもなかった。
「サービス」にした途端、失われるものがある。だから、手に取るものを選んで、「サービス」をしていない。
大人の世界と子どもの世界が分かれていることは、本来「ふつう」じゃないはずで、大人よりも未熟な子どもを差し置いて、大人が中心な世界も、「ふつう」じゃない。
だから、「こども中心」。
「こども中心」は、「ふつう」だ。
このゴールをみるまで、時間はかかったけれど、園に足を運んで、見て、場を感じられた。
そして、じぶんの言葉で伝えてくれる美和さんと出会えてよかった。
今回のインタビューを経て、簡単に言ってしまうと、わたしは「子育てが楽になった」
けど、「ぱぱままっぷ」を読んでくれているひとたちとは、遠回り感も含めて、ともに歩いていきたい。
これからも、よろしくお願いします。
(「ぱぱとままになるまえに」代表・西出博美)
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