ぱぱとままになるまえに

親の“理性”と“本能”

土:みんな、小さいときの僕のことを「すごい暴れん坊で、自分の意思を通すためにすごい暴れ回ってた」って話すんです。でも、今の僕を見ると「全然そんな土とは違う」って言われて。

なんかすごく…僕はそれが悔しいって思いもあったりして。今の自分自身に対して、それこそ…穂子さんとか山くん(※土くんの父。穂子さんは、沈没で土くんを育てながらも、八丈島に行くまでは、週末は山くんに土くんと会わせる機会を持っていました。“交換日記”をして、それぞれの“子育て”のやりとりをしてたのも、2人の面白さです。)みたいに、“強烈な個”みたいなところがないっていうか…。

ゆるやかに適応するみたいなところが…。いい部分もあると思うんですけど、なんか自分は嫌だなって思うときもあって。
だから、小さいときの自分のエピソードを聞くと、そのときの自分に対して、悔しいなって思ったりします。

沈没にいっしょに住んでた人とか、遊びにきてた人に、久しぶりに会ったとき、「土は変態のサラブレッドなんだから、もうちょっと頼むよ〜!」「大学行ったりして、あまりにもフツウすぎるでしょ〜!」って言われて(笑)

そんなパターンあるんだ!?って(笑)“医者の子どもなんだから医者になれよ”みたいな感じで、“変態の子どもなんだから、変態になれよ”って言われました(笑)

だから、映画を撮ったり、編集したりする作業は、そんな自分に向き合うことともつながったので大変でした。
あとは単純に、映画をつくる過程で、写真や映像、保育ノートに書いてある自分のことや、書いてある文章とかめちゃめちゃ見たんで、なんかちょっと頭おかしくなりそうでしたね(笑)

あと…。映画の中で、僕が自分でナレーションをつけてるんですけど、これでいいのかな…っていうのはすごいありました。

大人になった僕が、小さいときの自分を振り返って、“たぶん、こう思ってたはずだ。きっと、こう思っていたな。”みたいなことをナレーションで言ったりしたんだけど、「ほんとにそうなのか?」と考えてました。

小さいときの僕から見たら、「いやいや…そんなひとつの文章でくくれるほど、単純じゃねーよ!!!」って言われてる感覚がすごいして(笑)

“映画に落とし込む”っていうところで、小さいときに思っていたいろんな感情を、映像を編集するのと同じように、“自分の心を編集する”みたいな感覚だったので、それは辛かったですね。
でも、この映画にはナレーションが必要だな、自分で語ることが必要だなって思ったんです。けど…小さいときの自分に怒られてる気がして…。

『お前、そんな簡単にまとめんなよ!』 「すんません〜」みたいな(笑)自問自答はありましたね。

まっは(カメラマン):映画の撮影とか本の執筆が終わって、向き合って、ひとつ、形になって…。変わったことってあるんですか?自分の中で。

土:最初、卒業制作で作ろうとしたとき、「家族って、自分の家族ってなんなんだろう?」みたいなところの疑問からスタートしたんです。

他の人の家族とは違うけど、自分の家族って、どんなもんだったんだろう?みたいなところからスタートして、いろいろ撮ってみて…。

結局やっぱり、「家族」というタイトルはついてるけど、個人と個人の関わりであるな…という。

“穂子さんと俺”とか、“俺と山くん”、“俺と、しのぶさん”…とかっていう関係だから、「家族って何なのか?」みたいなところの、答えを求めなくてもいいよなぁ…って気になってきましたね。

「家族とは?」みたいな問いが、今、めちゃめちゃ流行ってるっていうか。フィクションとか、アニメーションとか、いろんな題材のものがあって、それぞれがけっこう形を示してるけど、僕はなんか、家族って何なのか的な問いに答えなくてもいいんじゃないか?って問いにたどり着いた感じ(笑)

ひろみ:確かに…。今、転換期なのかもしれないけど、流行りみたいな感じで…

土:ブームがきてますよね〜。

ひろみ:“多様な家族ブーム”な感じは確かに…。

土:意味付けすらが意味ないんじゃないか、みたいな。家族のね。

ひろみ:みんなが問い直している、そういう時期なのかもしれない…。そういうの、今、感じますね。

さっきの土くんの話で気になったのは、「変態から産まれたんだから、変態になれよ〜!」って他の人に言われてなかったら、劣等感みたいなものは感じてなかったですか?
それとも、以前から感じてましたか?

土:以前から感じてましたね。やっぱりなんか、羨ましいっつーか、なんか劣等感あるんですかねー。特に穂子さんに対して。

…でも、映画撮って、なんかちょっとやり返せたかなっていうのは思いますけどね(笑)映画を撮って、いろんな人に広がって、いろんな人に観てもらえたし。

穂子さんがチラシをまいて保育人を募集したように、僕も映画を作ったことによって、出会い直せた人がいたし、映画にうつってる人もそうだし、撮影では出会えなかったけど、映画館に観に来てくれた人、あとは、「土くんのこと、実は昔、抱っこしたことあるよ」みたいなこと言ってくれた人に、映画を上映したことがきっかけで会えたりとか。

映画を作ったからこそ、こうやって(今の取材の場のようなこと)新しく出会えてた人たちもいっぱいいるし…っていう。

渦巻きみたいなものができてるっていう意味で、沈没をやった穂子さんに、ちょっとやり返せたかなっていう感覚はあるかもしれないですね〜。

ひろみ:わたしの親とか、別におもしろいこととかやってないので、親が羨ましいとか、親に対して劣等感があるってことに共感はできないんですけど(笑)
でも、あれだけおもしろい親がいると、そう思うんだな〜って、全く自分にはない感情だったので興味深く感じました。

ひろみ:土くんと穂子さんは、別々の人間ではあるんだけど、でも、“親と子”で。

土くんは沈没家族にずっといたかったのに、穂子さんが八丈島に行きたい!行く!って決めたから、土くんも八丈島に行かなきゃいけなくなりましたよね。小さい頃って、そういう選択しかできない。でも、ほんとは別々の人間なのに…。

子どもの希望もあるし、大人の希望…やりたいこともある。重なる部分と、もちろん重ならない部分もあって。
土くんが、本の中で《唯一、穂子さんを恨んでるとしたら、沈没を出るって決めちゃったこと》って書いてあって。でも、また別の箇所で、《穂子さんはすごい特別枠な人》とも書いてあって、おもしろいなーと思って、読みました。

土:子どものことを考えるっつーのもあるのかもしれないけど、たぶん、穂子さんは、そんなこと全然なかったっていうか(笑)

自分が行きたいから八丈島に行く、っていうのもそうだし。…結局、子どもって自己決定権ないから、デフォルトでかわいそうな存在というか…状態だと思うんですよね。
誰から産まれるかとか、産まれてきたところが金持ちかどうかとか、親の仲が良いかとか、選べないから、子どもは。

自分で何も決定できないのがすごいかわいそう。どんな状態であってもかわいそうだなって思うけど、かわいそうだから、かわいそうってことで、別に、割り切ればいいんじゃないかって思う(笑)

ほんとに…八丈島は、ほんとに嫌でしたから(苦笑)絶対行きたくなかったのに、従わざるをえなかったんですよ…。でもまぁ、結果的に僕のふるさとは八丈島で、大事な場所になってるし…。どうなるかはほんと、運によるところが多いと思うんですよね〜。

ひろみ:確かにね〜。

本の中で、《穂子さんはかなり土くんを尊重していて、子どもなのに、一人の人間として見過ぎてる…》みたいなことが書いてあって。穂子さんが土くんについてチラシに書いた一文でも、それは垣間見れて。《電車が好き(だと思います)》って、カッコ書きするあたりに穂子さんの考え方が現れてるっていうか…

土:決めつけないね〜。

ひろみ:土くんのホントのことは、土くんにしかわからないからって、そう書いてて、“別の人間としてちゃんと尊重してる”…っていうか、分けて考えているような印象があるのに、けど、振り切って、「よし!八丈島いっしょに行くよ!」っていうところの、バランス感覚がおもしろくて(笑)

でもなんか、“子どものためを思って”とか、“こうしてあげたいとか”、中途半端に譲歩して子どもに合わせるより、スパっと自分のやりたいことに巻き込むときには巻き込んでもいいし、好きなようにしていいんだな、って思えて。

土:親が楽しくないとね〜。親がエンジョイしてるように見えるっていうのは、けっこう子どもにとっても、デカかった。

八丈島行ったとき、最初は辛かったけど、それでもやっぱり穂子さんは、いろいろ不安なことはあっただろうけど、僕からすると、超エンジョイしてましたからね(笑)
引っ越してよかった〜!って、超楽しそうに見えたっていうのが、だからこそ僕も行ってよかったと思えたというか。

そこで穂子さんも「やべー…失敗した〜…。」みたいに落ちてたら、僕もやっぱり辛くなってたんじゃないかな…。

少なくとも、僕はやっぱり、大人がすごい楽しそうにしてた、大人が楽しくするっていうのは…優先順位として、大事な気がしますけどね。子どもを尊重…というか、子どものことを考えすぎて辛くなるよりは全然。

ひろみ:「取材のまえがき」でも書いたんですが、本能と理性みたいなところが、わたしは気になってて…。

子どもはもちろん、本能とか理性とか言わんでも、そのまま言いたいこと言ったり、したいことをして生きてて。

親は大人だから…例えば、疲れてて寝ていたいけど、子どもが朝起きたから起きなきゃ…みたいなこととか。そこで、親は寝たいからって本能優先に生活する…っていうのは、今、フツウの家族だとしにくい。
だから、親まで本能全開だと社会で生きていくのは成り立たない感じがするけど、それを“ちゃんと”、したいことをしていくために、本能全開で生きるために、穂子さんは、本能全開で生きることが可能な“社会”を、自分で作ったんだろうな、と感じました。

物理的に、ホントに必要に迫られてだったのかもしれないけど、夜、自分が家をあけるときに誰かにいてほしい、自分が写真やりたいときに誰かに子どもを見ててほしいっていう、親も本能全開でいても、親子で生きていける社会をつくっていけば生きていけるのかもしれないなって思いました。

土:まず、自分で動けるフィールドを作ったっていう感じですよね。チラシ配らないで僕と一対一だったら…やっぱキツかったと思うね〜。

ひろみ:わたしは、今、子どもと旦那さんと3人家族なんですが、“母親としてこうあらねば”みたいなのが、なかなか崩しにくくて…。気持ちの面のゆとり…みたいな。

けど、昔からの友だちとかが家に来てくれたりすると、“母親ってだけじゃない”自分がポロッと出るっていうか。“もともとのわたし”として呼吸ができる感覚のようなものがあって。
家族だけといるときとは違うわたしがちらっと出てきたりするので、そういう状態を日常にしていた沈没家族って、やっぱおもしろかったんだろうなぁ〜(笑)

“本能を引き出してくれる他者の存在”って、すごい大事だな…って思いました。「やりたいようにやろう!」って思っても、なかなかできにくくて…。たぶん、それも本能だから。

「子どもが喜ぶことをしてあげたい」ってのも、本当の気持ち。でも、それだけじゃない“個人としての、やりたいこと”って、子どもを目の前にするとなかなか出しにくくって…。

けど、他の人がいてくれることによって、ポロッと出ることとかあるなぁって、話を聞きながら思いました。

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