ぱぱとままになるまえに

家族と自分を結びつけすぎないこと。

ひろみ:わたしは、結婚とか妊娠とかする“当事者になるまえ”に、「結婚したいか?したくないか?」とか、「子どもは欲しいのか、ニガテなのか?」とか…。
いろんな“なるまえに”全人類が一旦、考えた方がいいんじゃないかな、くらいに思っていて(笑)

立ち止まって考える機会が、みんなに訪れたらいいなって気持ちで「ぱぱとままになるまえに」という団体名にしてるんですが、結婚したり、子どもを産みましょう!って団体なのかと、誤解されている面もあって。

結婚しても、しなくてもいいと思ってるし、子ども産まなくても産んでも…。ほんと、言葉を恐れず言うなら、「何でもいい」って思ってるんです。「どうでもいい」とは違うんですが。

でも、『子どもいなくても全然いいよね!』ってのも違うっていうか…。

結婚してても、してなくても。バツイチでも、もう何でも(笑)『子どもがいるのって、楽しいね』とか、『まぁなんか悪くないよね。』ってくらいのことを、みんなが感じられる社会だったらいいよな、とは思ってて。

だから、沈没家族でいいなって思ったのは、“だめ連”みたいな人たちとかも沈没に関わって、いっしょに子育てしてるのとか、めっちゃいいですよね。

“だめ連”の詳細とか輪郭は、大人になってからわかったと思うんですけど、その、“だめ連”的な人が家に来たときや、家にいたとき、子どものときってどう思ってましたか?

土:“だめ連”って、90年代あたりの中央線カルチャーでは有名な“新しい若者”みたいな感じで(笑)
当時は、バブルとか終わって、不安な時代に突入していて。そんな中で、「結婚できない・子どもができない・就職できない」とかっていうことが、“だめな男の人”ってなっていたみたいで。
“男としてのステイタス”っていうか、“男らしく”しなくちゃいけない、“男性性”みたいなものから、外れてる人たち。男だけじゃなくて、女もいたと思うけど、とにかく「だめ」を自認していた人が多く集まっていたみたいです。

でも、だめをひとりで抱えこんで、拗らせて、心の病になったり、引きこもりになるんじゃなくって、自分たちで『だめでもいいじゃん!』『新しい生き方あるじゃん!』って集まって、だめを肯定しようってゆー会が、“だめ連合”。通称、だめ連(笑)

活動場所は、ほんといろんなところで、中野駅前とかでも飲んでとにかく交流しまくる(笑)「交流無限大」がだめ連の一つのスローガンだったそうです。

カルチャーのひとつみたいな感じで、当時はけっこう新聞とかテレビで取り上げられていて、そこによく来てた人たちに、穂子さんは目をつけたっていう(笑)

「もしかしてこの人たちはアレだな?!平日の昼間ヒマだな!?」って(笑)これは狙い目だなって(笑)
実際、だめ連の人たちもやっぱり、「自分たちは結婚できない・就職できない」「自分に子どもなんて一生できないんだろうな」って思ってるから、そんな自分たちでも、穂子さんの誘いに乗れば、子育てができるんだ!っていうので。

子どもの頃の僕は、なんか、「世界にはいろんな人がいるなぁ〜」って思ってましたね(笑)明らかに空気感が違う感じがあって…(笑)
映画の中に出てきてた“ぺぺさん”とかはなんか…妖怪みたいな佇まいもあって(笑)

家の中は親だけで、家の外でオモシロい人に出会うっていうのが多くの子ども達なんだろうけど、僕は、家の外では全然出会わなくて、家の中でばっかりオモシロい人に出会ってました(笑)

沈没にいた時、そういえば自分はスーツ着てるおとなを見た記憶がないなあとか思って。スーツ着てなくても全然それでいいんですけど。
平日の昼間、僕が学校から帰ってきたら寝てる人とかいたし、「なるほど。こーゆー感じで世界は回ってるのか」みたいに思ってたけど(笑)それはだいぶあの環境が影響してるな、とは思います。

ひろみ:本の中で、「父という存在がわからない」って土くんが書いていて。山くんのことも、“お父さん”っていうよりは、“仲のいいおじさん”みたいなところがあるって。

わたしも、自分が結婚して、子育てとかするようになって、パートナーとの“うまい”暮らしとか、“夫をたてて”みたいのとか…。
そういうの、サラッと話す人とかいるけど、全然わからなくって。

うちは両親、わたしの印象だと、ケンカしてないことがほとんどなかったから。いつも仲悪そうだったし、途中離婚して父親はいなくなったしで、“パートナーと協力して子育てする姿”って、全然イメージわかなくって。でも、もうそれが“普通”で。

でも、家族のこととかになると、かわいそうとか、大変だったのね…みたいな雰囲気になってくるんだけど(苦笑)でも、例えば、トリュフ食べたことない人が、「トリュフの味がわかんない」って言ったら、『あ〜そっか〜。』くらいでサッパリ終わるのに、家族のことってなると、“かわいそう”とか、なんか“背負ってる”感じになっちゃったりとか…。

土:ほんとだねー。そこだけは特別になっちゃいますよねー。

ひろみ:周りが特別視してるだけで、当人からしたら、「いや…ほんとにわからないだけなんだよ〜」くらいのことなんだけど、なんかハンディがあるって思われがちだし、自分もなんだかだんだんそう思ってしまいがちなんだけど…。

でも、ちょっと客観的に捉えられるようになった今、そうでもないんだけどな〜って思いながらも、やっぱ、その“経験がないからわからない”っていう、わからなさを自分は持ってはいるよなーってのは思っていて…。

土:僕も沈没で育ってかわいそうって、たまに言われることもあります。まぁ、別にかわいそうだと僕は思ってないからいいんだけど。
あとは、やっぱ沈没で育ったから、いい意味でも悪い意味でも、“特殊な思考を持っているんじゃないか”っていう風に思われたりはします。でも、いたってフツーの人間だと思うので(笑)

めぐと話してるときに、僕もめぐも、今の自分と、沈没を結びつけすぎないで考えているなって思いました。

大学生のとき、一人で旅をしたとか、八丈島に行ってとか…。いろんな経験があって今の自分がいるから、沈没だけで成り立っているわけじゃないなーって。

ひろみ:わたしも大学生のとき、旅先で会った友だちと、家族の話とかして、「うち、お父さんが離婚家系で、自分も続きそうで怖い」って言ったんだけど、『でも、お父さんとは全然違う経験してるから大丈夫じゃん?』って話をしたなって思い出しました。

それなのに、自分が子育てだけしてると、自分の立ち振る舞いとか、自分のいろんなことが影響して子どもが作られていってしまう…!って思っちゃいがちで…。

だから、子育てだけしてると忘れちゃうから、こうやって、沈没家族の映画観たりだとか、いろんな人と家族の話とかしたりして、「あ〜そうだった!そんなに自分の影響を考え過ぎなくていいんだった!」って、気付けるような機会を定期的に持った方がいいなって今思いました。

土:持ったほうがいいですよね〜。飲み込まれてしまうのかもしれないね。

土:沈没みたいなやり方もあるし、そこで育った自分もまぁ、なんとかまぁふつうに生きてますよ、って、知ってほしい(笑)
“特殊な家族”で育ったことを、育った子ども自身が、自分からそれを人にめっちゃ言うとかって、まだあんまないと思うので。
児童擁護施設で育ったとか、片親に育てられたとか…いろんな形で育った子どもはいるんだろうけど、なかなか顔が見えないっていうのはありますよね。

僕はもうガンガン顔を出してて、名前も本名なんで(笑)まぁ、こういう人もいるよ〜っていうのを、知ってもらえたらいいなって思います。

しかも、「沈没で育って最高だった!」とか、逆に「最悪でさ〜…」とか、そういうんじゃなくって、僕とめぐの感覚としては、『まぁ、悪くなかったよね』って言葉になって。そういうぐらいの感覚の人だっているんだよーっていうのは、多くの人に知ってほしいなってのはありますね。

“ドロドロの土曜の昼ドラ”みたいなもんだけに捉えられたくないし、逆に、“家族の絆”みたいな、キラキラしたことばかり言われても、苦しいなって思っちゃうし…。

もっとサッパリしてるもんでもあるんじゃないかな〜ってのは思いますね。

ひろみ:最初に穂子さんに会って沈没家族の話を聞いたとき、「土を死なせないようにギリギリそうだった」という印象を持っていた当時の保育人の人もいたけれど、もっとシリアスになる前にヘルプを出せた穂子さんはすごいなって思いました。

家族、子ども、パートナーとのこととか、さらけ出してる人って、まだまだそんなにいなくって…。“家族のこと”って、閉ざされがちだったり、家の中で抱え込まれていたりとか。
あとは、土くんの言うように、匿名のドロドロ系の体験記とか、漫画とか。逆に、困難な環境で育ったけど、こんな風に育ちました!ってキラキラ系とか…。

別に、その…普通に生きてる、別にどうにもなってない、普通の人のことがもっと表に出ていくっていうのは、なんかすごい大事な気がします。

ぱぱままの活動とか、ぱぱままっぷのインタビューの中とかでも、もっといろんな人が、自分の家族についてひらいていく、語っていく…。そういうことが“普通”になっていく。

普通の人が、普通に話ができるきっかけとか、雰囲気作りをしていけたらいいのかもしれない…。

土:本とか映画の宣伝をしまくったつもりでも、まだ出会ってない、映画や本が届いてほしい人たちがいっぱいいるので、これからも上映の機会があったらうれしいです。

映画をきっかけに、気軽に家族の話ができるってのはいいことだなぁと感じて。

自分はどう育って…みたいな話って、なかなかハードルがあるけど、沈没の映画観終わった後とか、みんな、映画の感想も語るけど、自ずと自分の家族のことについても話したがるっていうのがあって…。すごいいい光景でした。

“助け”とまでいかなくても、話すくらいでもなんか変わることはありそうですよね。

あとは、自分で出しておきつつ、僕が知らない人が映画を観たり本を読んだりして、僕の生い立ちを知ってるっていうのが、またおもしろいな〜って思いますね(笑)

ひろみ:自分の家族以外に、自分の小さい頃のエピソードを知っている人がいろんなところにいるって、すごいおもしろいですね。それってやっぱ、いいよなぁ〜。
(インタビューここまで。)

「どこか」じゃなくて、「ここ」に。

穂子さんは「親子共に本能全開でいることができる“社会”を自分でつくったんだ」と、思っていたけれど、そうじゃなかったのかもしれません。

既存の、“社会”から「親子」や「子育て」を切り取って、どこか“別のところ”でやったわけじゃない。

ただただ、別のところへ行かず、もともと自分がいた“社会”の中に、親子で居続けた。居続けるために、家族の形を沈没家族に変えたんだ、と記事をまとめていて気がつきました。

親と子、だめ連のような人たちでも、どんな状態の人でも。みんなが居やすい“社会”って、きっと沈没“しない”んだろうなぁ。

(文:西出博美  写真:古里裕美)

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